北東イタリアの世界遺産について〜世界遺産へ旅立つ前に

北東イタリアの世界遺産をめぐる〜世界遺産旅行ガイド
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ヴェネツィア市内の運河
 イタリア北東部で知名度の高い街といえば、トレントやトリエステ、そして何といっても水の都:ヴェネツィアでしょう。トップページでは、観光地としても歴史的意義としてもイタリアで1位か2位を争う有名な都市――ヴェネツィアにまつわるお話をまずはご紹介します。北東イタリアの世界遺産を見ていく上で、ヴェネツィアに関する知識は欠かせませんからね。実際、ヴェネツィアの街並そのものが「ヴェネツィアとその潟」という名
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 イタリア北東部で知名度の高い街といえば、トレントやトリエステ、そして何といっても水の都:ヴェネツィアでしょう。トップページでは、観光地としても歴史的意義としてもイタリアで1位か2位を争う有名な都市――ヴェネツィアにまつわるお話をまずはご紹介します。北東イタリアの世界遺産を見ていく上で、ヴェネツィアに関する知識は欠かせませんからね。実際、ヴェネツィアの街並そのものが「ヴェネツィアとその潟」という名前で世界遺産に登録されているほどです。


◎現在のヴェネツィア

 ヴェネツィア自体はイタリア本土ではなく、本土にほど近い小さな島です。しかし、オーストリア領だった19世紀の中頃に本土と直通する鉄道が整備され、事実上は本土と一体化することに成功しました。今では自動車が往来できるリベルタ橋も架かっており、アクセス的には本土と変わらないくらい便利になっています。
 とはいえ、運河を張り巡らされた小島の上にある水上都市という御伽話のようなシチュエーションにある街ですから、やはり一般の常識が通用しない部分も未だしっかり残っています。まず、ヴェネツィア本島内での自動車・自転車の使用は禁止です。車でヴェネツィアに来た人は、リベルタ橋を越えてすぐのところにある大規模な駐車場に車を停めてから市街地に入らなくてはなりません。街の中で許されている車輪付きの道具といえば車椅子とベビーカーくらいのものです。この街には、警察や消防といった公共サービスの車も存在しません。その代わりに、ヴェネツィア市内を網目のようにめぐっている運河の上には無数の船舶が往来しているのです。タクシーもバスも郵便配達もパトロールも、すべて船舶が用いられているんですね。船で車の代わりが務まるほどに多くの水路が張り巡らされており、車が通れるような広い道が1本もない街並が想像できますか? そんな、まるで空想上の世界がヴェネツィアには今も残っています。
 また、水上都市であるヴェネツィアにはアクア・アルタと呼ばれる驚きの現象が存在します。実は、大潮と気圧低下、それに南から吹き付ける海風(シロッコ)の3条件が重なるとヴェネツィアの中心地であるサン・マルコ広場が水没するのです。明らかに洪水の一種なんですが、わりと頻繁に起こる出来事であるせいか災害というイメージでは捉えられておらず、一種の名物・風物詩として見られている部分が多分にあるという、非常に変わった洪水です。
 街並も古いイタリアの都市が持つイメージをそのまま実体化したような美しく、かつ趣きある風景が楽しめます。市街地は運河のほかに無数の細い路地(カッレ)と石畳の小さな広場(カンポ)で構成されており、ファンタジー小説・映画などに出てくる幻想的な街の姿そのもの。知れば知るほど、実物を目に焼き付けるために訪れてみたくなる場所だと思います。


◎ヴェネツィアにまつわるエピソード
 〜アドリア海の女王

 ヴェネツィアの始まりは西ローマ滅亡後の中世最初期、ゲルマン人――特にロンバルド(ランゴバルド)族――やフン族の侵入により北イタリアが荒廃していた頃に、侵入してきた異民族を撃退するため結成された沿岸地域の相互扶助組織にまで遡ります。
 その後、巧みな造船技術を背景に貿易港として発展したヴェネツィアは、名目上は東ローマ帝国領とされつつも、ずっと事実上の独立状態を保ち続けました。7世紀に入ると民主政治で初代総督を選出し、ヴェネツィア共和国として名目上も独立。以降は滅亡まで独立を保ちます。
 ヴェネツィアはアドリア海(東地中海)に面した海洋国家として栄え、キリスト教世界の一因でありながらイスラーム世界とも積極的な貿易を行って国力を圧倒的に伸ばしていきました。また、アドリア海は強国である東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の領土にも面しているためイスラーム勢力による攻撃を恐れることなく交易ができたことも、ヴェネツィアの海洋貿易が隆盛する一因となったのです。
 ビザンツ帝国とイスラーム王朝のオスマン帝国の闘争が続き、徐々にビザンツ帝国が疲弊してくると、ヴェネツィアはビザンツ帝国の代わりにアドリア海の防衛を担うまでになり、海上貿易での発展に加えて、突出した海軍力までもを保有するようになります。こうして、最盛期のヴェネツィアは“アドリア海の女王”という名声を欲しいままにするほどの強国となりました。小規模な都市国家がこれほどの力を持つ例は、歴史上にもほとんどないことです。
 しかし、ヴェネツィアは徐々にビザンツ帝国の都:コンスタンティノープルの存在を疎むようになっていきます。コンスタンティノープルのまた、アドリア海に面した貿易港を持つ大都市だったからです。1強の座をさらに確かなものにするには、このコンスタンティノープルの存在が邪魔だったのです。
 ヴェネツィアはついに、自分を信じて海上防衛を委ねたビザンツ帝国を裏切る行動に出ます。キリスト教世界を防衛するためにイスラーム勢力を攻撃しようと招集された第4回十字軍において、ヴェネツィアは兵力の輸送を請け負うことになりました。しかし、船賃の不足を理由に、まずはヴェネツィアから離反した都市:ザーラの攻撃を十字軍に対して打診します。「船賃の代わりに、ヴェネツィアに逆らう都市を攻撃せよ」と要求したわけです。もちろん、相手はヨーロッパの都市ですから同じキリスト教徒。十字軍の名目を根本から破壊するメチャクチャな要求でしたが、十字軍はこれを受け入れました。地中海の兵力輸送を担える国家はヴェネツィアをおいて他になかったからです。
 ザーラを攻略すると、ヴェネツィアの矛先はコンスタンティノープルに向かいました。ビザンツ帝国で勢力争いに敗れて廃位された皇太子による帝位奪還・ローマ=カトリックとギリシア正教に分かれているキリスト教の統一を口実にビザンツ帝国の首都:コンスタンティノープルを攻撃させたのです。本来の十字軍は「イスラーム勢力のオスマン帝国による攻撃に苦しむビザンツ帝国を、ローマと袂を分かったギリシア正教であるとはいえ同じキリスト教徒のよしみとして助けよう」という名目で始まったものです。ここに至り、ヴェネツィアの思惑によって、十字軍はその存在意義すら疑われかねない暴走を始めました。
 十字軍はコンスタンティノープルを襲撃し、殺戮・略奪の限りを尽くします。結果、ビザンツ帝国は一時的に滅び、バルカン半島の一部にニケーア帝国として残るのみになりました。コンスタンティノープルにはヴェネツィア商人らの主導でラテン帝国が建国され、すべてはヴェネツィアの思うとおりに運んだのです。後になって亡命政権となっていたニケーア帝国がコンスタンティノープルを奪回。ビザンツ帝国が復活しますが、もはや往年の勢いにはありませんでした。
 その間にヴェネツィアは周辺諸国を侵略して領土を拡張、長年のライバルだったジェノヴァも屈服させています。裕福な貴族たちが政治を掌握するようになり、共和国とは名ばかりの軍事国家へと変貌しました。では、ヴェネツィアは絶対的な1強として“アドリア海の女王”の座を守り続けたのでしょうか? 皮肉なことに、そうはなりませんでした。これまで、ずっとイスラーム世界と戦い続けてキリスト教世界の盾となっていたビザンツ帝国を急激に衰退させたことで、オスマン帝国による西ヨーロッパへの攻撃が日に日に激化したのです。オスマン帝国によって、ヴェネツィアは次々と海外領土を奪われるようになっていきました。
 そして迎えたキリスト教勢力とオスマン帝国による、地中海の制海権を賭けた天王山――プレヴェザの海戦。ヴェネツィア海軍は、スペインとともにキリスト教陣営の中心として参戦しました。しかし、ヴェネツィア・スペイン・ジェノヴァ・ローマ教皇領の連合勢力を揃えた海軍は、オスマン帝国によって完膚無きまでに叩きのめされました。時のオスマン皇帝は戦争の結果を確認すると「キリスト教徒はもう、板きれ一枚だって海に浮かべることができない」という言葉を呟いたそうです。こうして、アドリア海を含む地中海全域は、完全にイスラーム勢力の海となりました。このプレヴェザの海戦が勃発したのは1538年のこと。長年、たった1国でオスマン帝国と五分の戦いを繰り広げていたビザンツ帝国は急激な衰退に歯止めがかからず、1453年にオスマン帝国によって完全に滅亡していました。もしも、プレヴェザ海戦の時代にビザンツ帝国が健在ならば、地中海をイスラームに奪われることはなかったかもしれません。ヴェネツィアは、過去に行った行為の報いを受けるような形になったわけです。
 後の時代になって、スペイン中心のキリスト教陣営はレパントの海戦でオスマン帝国に勝利し、地中海の制海権を取り戻すことに成功しました。(ヴェネツィアも参戦していますが、この時はすでに主力ではありませんでした)しかし、ヴェネツィアの国力が復活することはありません。時はすでに大航海時代。貿易の中心は大西洋であって、アドリア海ではなかったのです。時代はもう、かつての“アドリア海の女王”を必要としてはいなかったのです。
 落日のヴェネツィアはさらなる衰退を続け、もう二度と海洋国家の地位には戻れませんでした。もはや工芸などの分野で一定の財力を有するだけの小規模な都市国家に過ぎず、そのままヴェネツィア共和国という名前がヨーロッパ史の表舞台に出ることはなくなりました。時代は近世に入って18世紀の末、ヴェネツィア共和国はフランスの英雄ナポレオン=ボナパルトの攻撃によって降伏――静かにその歴史の幕を閉じたのでした。



※当ページで使用している画像はwikipediaからの引用です。
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 北東イタリアの中心都市ヴェネツィアにまつわるお話でした。次のページからは実際にイタリア北東部にある世界遺産の数々を見ていきましょう。
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